未来で待っていてね~ミキモトのギフトラインを購入した話~
「あと3年したら似合うんじゃないかと思ってね、クローゼットで寝かせてるのよ」
10年前に購入したネイビーのトレンチコートに、未だ袖を通していないと知人が笑った。その理由を尋ねるとこう帰ってきたのだった。
3年後、彼女は還暦を迎える。
未来の自分なら似合うと思うから、その日のために用意しておく。私は、「モノ」に対してそんな風に考えたことはなかった。いつだって、今自分が欲しいもの、手に入れたいもののことばかり考えて生きてきた。
そんな自分を否定するつもりはないけれど、未来の自分のためにという考え方は、自分をとても大事にしているように見えて、素敵に、眩しく見えた。
いつの間にか大人が始まっていた
ミキモトのギフトブランド「ミキモトインターナショナル」が2017年2月末をもって終了するという知らせを聞いたのは、それから数日後のことだった。
ずっと、欲しい商品があった。
阿古屋貝をモチーフにした小さな手鏡とリップペンシル。真珠があしらわれたそれは、「上品」という言葉そのものを落とし込んだデザインで、ふんわりと温かい香水の香りまでも立ち上ってくるようだった。
「これが似合う大人になりたいな」
20代初めの私は、オンラインショップを時たま眺めながら、よくため息をついていた。
そして今、あの頃の想像していた自分の姿から随分と遠くまで来てしまい、販売終了の時が告げられた。
夢は終わった。私は大人になった。
オンラインショップの購入ボタンを押して、夫と娘が眠る寝床へと戻った。毎日上手くいかないことばかりで、SMAPのあの歌のように、「あの頃の未来に僕らは立っているのかなぁ」という気持ちでいっぱいだ。
私は何も、何の覚悟も準備もできないままこんなところまで来てしまった。
心渦巻くそのままに
数日後、小さな小包が届いた。
漆黒に浮かぶ箔押しのブランド名。いい黒だ。清濁もすべて飲み込む色。大人の色だ。
この色に救われた気がする。上手くいかないことも、そのすべてを飲み込んで生きているのが大人だ。優しいだけじゃいられない。
箱を開け、ため息が漏れる。敷き詰められた布も商品も、しっとり濡れたように艶めいている。
慈愛に満ちただけの女には使いこなすことは難しそうだ。憎しみも純真さも聡明さも優越感も情念も。自分の中に育ったあらゆる感情が、投影できるアイテム。
人生は一筋縄じゃ行かない。渦巻くことは正しい、と私の背中をそっと押してくれる。
やっぱり、買ってよかった。
未来で待っていてね
一通り眺めた後、大事に箱に戻す私を見て、娘が訝しげに尋ねた。
「なんで戻しちゃうの?すぐに使わないの?」
「これはね、未来の自分が使うために買ったんだよ」
「いつ?いつ使うの?」
「うーん、じゃあ10年後。私が40歳になる頃に使おうかな」
「10年後かあ」
娘は指を折りながら、10年後の彼女自身の姿を頭に思い浮かべているようだった。
「その頃にはきっとアルバイトもしてるだろうし…ねえねえ、私が居酒屋でアルバイトしていたら、ご飯食べに来てくれる?」
思わず笑ってしまった。
10年後、今はまだ甘えん坊のこの子は、きっともうこんな風にぴったりと私のそばには寄り添っていないだろう。反抗期と自立心の調味料で味付けされた未来が、彼女には待っているだろう。その頃にはもうこんな風に「ご飯食べに来てよ」なんて、言ってはくれないだろう。
「ねえ、約束ね。絶対。パパと祖父ちゃんも祖母ちゃんも。皆で来てよ」
そう。私は絶対に行くだろう。
娘に会いたくて何度もビールをお代わりする夫を横目に、私は化粧室に立つだろう。
「もう!忙しいんだからそんなに何回も呼ばないでよ!」と怒っている声を遠くに聞きながら、ポーチからこのミラーとリップを取り出すだろう。
相田みつをの廉価版のような張り紙だらけの化粧室で口紅を塗り直し、「悪くない未来だな」と微笑むだろう。
そんな夢みたいな未来が本当に来るんだろうか。
未来の自分へ贈り物をするのも悪くない。等身大の自分を愛するだけじゃ物足りないから、「これが似合う大人になりたい」という気持ちが、私を成長させてくれる。迷う自分の存在を肯定してくれる。この想いは、ギリギリの毎日を送る自分にとっても、希望の一筋。光そのものだ。
ただ一つだけ言えるのは、これは甘美な空想などではなく叶う可能性があるということだ。今の暮らしを紡いでいった先に待っている、現実であるということだ。
その現実が、狂おしくも、安らかなものでありますように。
そんなふうに、やりきれない毎日の中で、祈りを積み重ねている。
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